PRAHA, CZECHO


東ヨーロッパのローマと呼ばれる美しき古都 ”プラハ”













東欧のローマと呼ばれるプラハに行きたいと思い立ったのはドイツに入ってからだった。ベルリンのユースで出会ったオーストラリア人、ハンスがその古都のすばらしさを嬉々として話してくれた時、ふと英語学校時代のチェコ人の友達を思い出した。

1989年、NYに渡る前ぐらいだっただろうか、TVではじめてプラハという街を知ったのは。東西ドイツの統合、東欧のロシアからの分離、独立の一連の嵐が吹き荒れた最中だった。子供から老人までプラハの中心部をプラカードを掲げながらバーツラフ広場を行進していた姿をNHKのニュースで目にし、日本の平和を再認識した瞬間でもあった。
1968年の民主化運動、”プラハの春”以来2度目となる革命の行進で、プラハが生まれ変わったのを知ったのは、それから数年後だったかもしれない。あまりにも遠い世界の話だったので、何が起きていたのか注意していなかったためだ。アメリカに渡ってから生まれて初めて出会うチェコ出身の彼女とお互いの国の話をしたとき、彼女がその行進の真っ只中にいたことを知った。地球の裏側の遠い遠い、、テレビの中だけの世界が、急に現実味を帯びたのを覚えている。あの”プラハの春”を率いたドブチェクもこの世を去って久しい。

ハンスはチェコに入るにはビザがいるかも知れないことを教えてくれた。手元の「地球の歩き方(ヨーロッパ編)」をめくると、その旨の記述を見つけた。早速ベルリン市内にあるチェコ大使館に行ってビザを取得し、プラハ行きの列車に飛び乗った。残念ながらチェコの情報は「地球の歩き方(ヨーロッパ編)」にはそこまでしか載っておらず。後は野となれ山となれである。

プラハ行きの列車に揺られながら言葉を交わした向かいの座席の彼は、チェコ人だった。どーも発音しにくい名前で、最後まで覚えられなかった。ドイツとチェコの両方にオフィスを構えているビジネスマンで、多少の英語が話せたので、なんとかコミュニケーションをとることができた。この旅始まって以来の予備知識ゼロでの訪問国のため、聞けることは聞いておこうと思ったのだ。どうやら物価はドイツよりも数段安いらしい。これは久しぶりにサンドイッチ以外の物が食べれると、ほくそ笑む。プラハ本駅につくと、宿探しまで手伝ってくれるという親切な彼と共に、駅構内にあるInfomationに行った。相場がわからないのだが、1500円相当の宿があったので、そのまま決めてしまい、お金の両替までそこで行った。彼の通訳に助けてもらったのはいうまでもない。

プラハの駅からの移動は地下鉄だったが、日本とかと違ってゲートがないため、無賃乗車が多い。かくいう私も両替所が見つからずにチェコ人の彼と共に一駅ほど無賃乗車をした(こんなことを書くのは心痛いが、彼の「大丈夫」にまんまとのってしまった)。

”プラハの春”で二度の革命の舞台となったバーツラフ広場を歩いてみる。TVのスクリーンに映し出されていた民衆の熱気に満ちた通りは、その熱さを忘れてしまったかのように、今は静かに佇んでいるだけだった。革命の後の静けさは、現在壁の取り払われたベルリンのブランデンブルグ門と似ている気がした。


プラハ編第2弾に続く



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